陰間茶屋【最高動画】歴史的背景
| 陰間茶屋とは? 簡単に言うと遊郭の男性バージョンのようなものです。江戸時代に栄え、多くの男性の憩いの場であり遊び処だったのです。現代では男同士の恋愛は御法度のように認知されていますが、実はほんの140年前までは当然の文化だったのです。つまり、江戸時代以前の全時代、日本は類稀なる男色天国。男と男が交わることが不道徳とはされない独自の感覚が根付いていたように思われます。そうでなければ、公に陰間茶屋なるものが営業し、まして流行もしなかったでしょう。そもそも、陰間茶屋は歌舞伎役者の卵である陰間たちが客の相手をしたのが始まり。役者の卵なので当然のごとく美少年ばかりで、また女色と違い年若い若衆でなければ売れません。現代に置き換えて見れば、歌舞伎とは今で言う芸能界。陰間は売れる前の芸能人。ジャニーズジュニアと言ったところでしょうか。しかも歳も限定されていて、だいたい11歳〜20歳くらいまでの期限付き!そんな刹那的な美貌がますます珍重され、陰間たちは神童として崇められ、時の権力者からセレブなどから大いに愛されました。そんな儚い桜のような男の娘のダイジナトコロに挿してしまおうというからには値段もかなり高額だったようで、お客様は僧侶、御高知衆(上級武士)、裕福な町人ばかりであったといいます。そして陰間茶屋は、時代の盛衰と共に変幻していきました。東比叡山喜見院のあった本郷は湯島天神門前町、大きな芝居小屋があった日本橋の芳町などに多く出店され、人気も需要もうなぎ登り。江戸中期、『生類憐みの令』で有名な五代将軍徳川綱吉の時代に大流行しました。しかしその後、享保の大飢饉が起こり、暴れん坊将軍で有名な八代将軍吉宗が質素倹約の大改革を起こします。それに伴い値段の高い陰間茶屋はどんどん衰退していきました。そしてまた田沼意次や松平定信の時代を経て浮き沈みを繰り返し、とうとう幕末を迎えます。定信の寛政の改革の折、芝居小屋や多くの陰間茶屋は取締をされ、江戸末期の頃には既に湯島の僧侶専門の陰間茶屋一件のみとなっていました。そして、最後の陰間茶屋は江戸末期に勃発した戊辰戦争の折に大のお得意様であった湯島の寺院が焼け落ち、惜しくも店仕舞いに追い込まれてしまいます。そして明治維新とともに衆道の文化は次第にインモラルなものとして認知されるようになり、昔は立派に商売として確立していたこの文化もなかなか表立って公表しずらい肩身の狭いものとなってしまいました。しかし現代に再び舞い戻ったのです!そう、茶屋ではなく動画サイトとして! 衆道とは? いわゆる男性同士の同性愛のことです。しかし現代のそれとは少し違う感覚があります。武士道の中の精神論として衆道というものが存在していたのです。昔は女性はただ男児を産む道具としか見られておらず、男尊女卑の考えが根強くありました。つまり男が男に惚れることはなんら恥ずかしいことではなく、特に薩摩藩などでは盛んに行われていました。薩摩藩では門外不出の古流剣術、示現流が御流儀として伝えられており、藩外に洩らすことを堅く禁じられていました。示現流は御留流として一つの藩でのみ伝承され、これにより薩摩藩では内密主義の傾向が非常に強まりました。つまり侍たちの密閉された空間が出来上がっていったのです。他藩との交流だけでなく女との交際も卑しいものとされた為、必然的に男色文化が栄えたのです。武士と武士が鍛錬を重ね築き上げられていった示現流。それは全国諸藩から恐れられていた一撃必殺の剛剣であり、「一の太刀を疑わず」「二の太刀要らず」の教えの元、とにかく早く打ち下ろすという力と速さが合わさった実戦型の剣。つまり最初の太刀のみ勝負の全てをかけ、次の太刀は考えないという当たれば必殺、かわされれば危険という恐るべき流派でした。初太刀に全精力を注ぎ込むため次の太刀に移行するのが難しいのです。初太刀をはずされたら自分が危険なためその稽古は凄まじかったとされ、幕末期の薩摩藩当主島津斉彬が稽古場に立ち寄った際、「まるで気が狂った輩の剣術だ」と評したという話が残っているほどです。また、幕末期に薩摩藩と敵対していた新撰組局長の近藤勇は対薩摩志士の策として「薩摩者と勝負する時には初太刀をはずせ」と教えており、これも薩摩示現流の威力の凄まじさを物語っています。外されたら終わりに近い示現流ですが、その分全生命をかけた初太刀の威力はほぼ防御困難なほどでした。初太刀を正面から受けた場合、真剣をへし折られるか自身の刀ごと斬られるかという、まさに避けるしかない先手必勝の剣術でした。実際に斬られた侍のなきがらは頭をかち割られているか、体ごと真っ二つになっているかという凄まじい姿だったと言います。少し話しが反れましたが、武士道と衆道には実は密接な繋がりがあるのです。 |